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国立歴史民俗博物館 [写真]

vcm_s_kf_repr_832x624.jpg国立歴史民俗博物館にお出掛けの際は、是非、四季の移ろい豊かな佐倉城址公園を散策し、日米通商友好条約締結に尽力された堀田正睦及び米国大使タウンゼント・ハリス両公の像をも御覧下さい。

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歴史に残る堀田公の家系 [歴史]

 将軍綱吉の初期の大老堀田正俊天和の治(てんなのち)と云われる一時代を築いた。

我が物顔で幕政を取り仕切る旧門閥を押さえ、将軍の意を存分発揮出来る体制を築いた。然し、江戸城内の御座の間で、若年寄り稲葉正休に突然殺害されてしまった。下手人稲葉も現場に居た老中に取り調べもせず討ち果たされた。何故?殺害されたかは不明である。大老の権力増大を恐れた将軍綱吉の意を受けた上意討ち?との説もある。                  天和の治(てんなのち) 

将軍綱吉と云えば、「生類哀れみの令」や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。然し、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。其の綱吉の改革の中心的役割を担ったのが大老の堀田正俊である。春日局の養子で、綱吉の兄である家綱の小姓となった事から出世し、1867年には老中に迄上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと」と云う大老・酒井忠清に対し「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局、正俊が勝ち、正俊は大老となった。 将軍綱吉と大老堀田正俊は「綱紀粛正」にを力を入れ、治政不良の大名は次々と処罰した。御家騒動等は論外で、代官の不正さえ一切許さなかった。一方、真面目な者達は表彰する、信賞必罰で政治に臨み、堕落した幕府と大名を厳格に取り締まった。其の他、財政再建に関しては、勘定吟味役を創設し不正を厳格に取り締まった。
 だが1684年に、如何なる理由からか大老堀田正俊が、甥の若年寄り稲葉正休に殺されてしまう。一説に依れば綱吉の命で殺したと云い。又、一説によれば、正休の立てた淀川改修工事を巡る費用見積4万両に対し、堀田正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させた処、半分の費用で済む事が判明、面目を失った正休が大老を殺したとも云われている・・・。

 此の頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ねる様になっていった。之を機に将軍綱吉は老中の力を削ぐ事に力を入れ、正俊の遺児も僻地に左遷し、以後の幕政は将軍綱吉の絶対的親政となり実務面は側用人、特に柳沢吉保を中心に動く事になった。従来の日本史にある犬公方綱吉の悪政が行われた元禄時代に突入する。綱吉の統治時代は強力な独裁政治が行われ、其の腹心が天和期では堀田正俊であり、元禄期は側用人柳沢吉保であった。 

 

堀田正睦=「国運を伸長するの道は開国に有り、国力を増強する策は通商に有り」との信念を持つ佐倉藩主堀田正睦は尊王攘夷鎖国派の福山藩主安倍正弘に替わり老中首座に在って日米友好通商条約締結に向け尽力した。条約の締結は大老の井伊直弼であるが、事実上日米友好通商条約を纏めたのは直前まで老中首座にあった堀田正睦と米国公使タウンゼントハリスであった。

国立歴史民俗博物館の有る佐倉城跡公園には、両公の偉業を偲び佐倉藩主堀田正睦公及び米国公使タウンゼント・ハリス公の像が地元有志に依り建てられている。

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