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西南戦争で敗れた西郷軍側の兵士の墓が [旅行]

列藩同盟で新政府軍に蹂躙された仙台藩としては、聊か納得致し兼ねる面もあって当然?然し、維新政府は西南戦争で敗れた西郷軍の捕虜を故郷から遠く離れた仙台で終身労役刑に付かせた。その内、此の地で生涯を閉じた7名の墓が未だに此処に有り、供花が絶えないと聞く、遥か昔、遠くヨーロッパに迄使節を遣わした先進伊達藩が同じ日本人同志、戦い終われば、最早no side!広く暖かい、古武士の「惻隠の情」を此処東北の優県に感じました。P1000869.JPGP1000870.JPG
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芭蕉の詣でた五大堂へ [旅行]

円通院に詣で海岸通り迄参りましたので、奥の細道にある五大堂にも参りました。
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円通院と小堀遠州の名庭園 [旅行]

前回、瑞巌寺参詣の際に時間が取れず見逃した隣接する円通院は伊達政宗公の嫡孫で19歳という若さで亡くなった光宗の菩提を弔うため、二代目藩主・伊達忠宗公が建てた臨済宗妙心寺派寺院です。奥まった処に建てられた「三慧殿(圓通院霊屋)」は技術の粋を尽くした伊達家屈指の建物で国の重要文化財にも指定されています。また、約350年前に造られた心字の池と補陀落山を中心にした庭園は、千利休、古田織部に並ぶ茶人大名で二条城二の丸庭園や浜松の井伊家墓所龍潭寺の庭園を造った小堀遠州が伊達家江戸屋敷に造った庭園を移設したものだそうです。
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仙台へ [旅行]

前回宿泊した隣の愛子駅で下車、秋保温泉に宿を取り、在仙同期生の案内で,弟さん経営タクシー会社の小型バスを利用、前回とは異なる観光コースをガイドして貰いました。先ず、「大崎八幡宮へ」此処は坂上田村麻呂が鎮守府八幡宮と称した事に始まる神社で、室町時代に奥州管領大崎氏が大崎市に遷した事で、古くは大崎八幡宮と呼ばれていました。大崎氏改易後に伊達政宗が現地に造営との事です。広瀬川上流の愛子盆地や山形方面に向かう作並街道(国道48号)に接する地で、慶長12年(1607年)伊達氏が祀ってきた成島八幡宮と合祀、仙台城下の乾(戌亥・北西)天門の鎮めとした社で、鎮座400年記念大祭を10年後に控えた平成9年(1997年)「大崎八幡宮」の名称に複したとの事です。 [大崎八幡宮] P1000778 (2).JPG












定義地区と西方寺 此の辺り定義(じょうぎ)地区は、壇ノ浦の戦いに敗れた平清盛の嫡男重盛の重臣・肥後守貞能(さだよし)が、追討を逃れ隠れた平家落人の郷です。貞能が名を「定義(さだよし)」と改め、追手から逃れた事から、地名を「定義」(じょうぎ)、西方寺本尊の如来は「定義如来」と呼ばれています。彼が領袖である重盛の大切にしていた阿弥陀如来像を此処に安置し、安徳帝と壇ノ浦で命を落とした一門の冥福を祈った事に始まる寺院だそうです。仙台市中心部から西へ大倉ダム北西の山中にあり、本尊の阿弥陀如来像は、古くから縁結び・子授け・安産にご利益があると知られ、生涯に一度の願い事なら必ず叶うと善男善女の信心を集めています [ ...五重塔も備えた立派な寺院です P1000800.JPG
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7月4日南信バス旅行 [旅行]

今回は、旅行会社のツアーを利用し、何時ものグループで、南信は木曽方面に旅をしました。 先ず、御嶽山はゴンドラで終点駅まで登り、2150m付近の「しらびその小路」を散歩し、頂を仰ぎ前回の噴火で帰らぬ人となった方々のご冥福を祈りました。あいにくの天候で視界は不良、気温もC16°とやや肌寒い感じでしたが、数年前の旅行時に、遥か馬籠宿から仰ぎ見た念願の霊峰に身を運ぶ事が叶い満足致しました。 翌日は木曽檜で有名な「赤沢自然休養林」で、独特の木製切符を求め、嘗ては檜材運搬に使っていたトロッコ列車で、此の森の歴史を語る車内放送に耳を傾け、終点駅迄参りました。其処からは森の中に作られた「ふれあいの道」を散策し、木々の精気フィトンチットを浴びる森林浴で活力を取り戻し、急斜面を下る急流に目を奪われ略30分始発駅迄歩きました。 午後は旅行会社が手配してくれた地元のおばちゃん達の手作り弁当を車中で頬張り、遠路弁天港迄足を延ばし、救命胴衣の装着方法を教わり、小型バスに分乗して上流の市田港迄行き、先日の雨で増水した天龍川の舟下りを約30分に亘り楽しみました。 P1000663.JPGP1000722.JPGP1000721.JPGP1000698.JPGP1000718.JPGP1000731.JPGhref="/_images/blog/_3e0/little-bird/P1000737-850fd.JPG" target="_blank">P1000737.JPGP1000748.JPG

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久し振りに伊豆の旅 [旅行]

日曜日に友人と早春の伊豆に旅をしました。柿田川公園で富士伏流水の湧水を見、大仁では地ビールで昼食を戴き、修禅寺では川沿いの竹林を散策し、修禅寺物語に因み・かえで・かつらと名の付いた赤い2本の橋を渡り、節分会の豆拾いに興じ、天城道の駅ではご当地の山葵アイスに舌鼓を打ちました。バスは順調に進みループ橋を下り河津に入ると、人々の往来はまだまばら、花は1~2分位の咲き具合。然し、先がピンクに膨らんだ沢山の蕾に春の息吹を感じました。この様に立ち寄り先の多いバスの旅も、夕日が西に傾く頃初日の旅程も終り、下田の手前白浜は小高い丘のホテルに到着。早速、渚を見下ろす名湯に浸かり、地の肴で杯を交わし、旅の疲れを癒しました。翌日はペリーロードを散策し、了仙寺に参り、此の国が開国に至る昔日の物語を伺いました。其の後は伊豆急の車窓から春色の海を眺め乍ら暫く上り、伊豆高原駅で下車小室山に遊びました。山頂からは富士山を始め真鶴や三浦半島越しに房総半島迄見はるかせ、遥か前方には伊豆七島も臨める好天に恵まれた久し振りの長閑な旅でした。この様に平和で長閑な日々が何時までも続きます様に・・・     P1000503 (3).JPG
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100歳の明日に向かって・山懐の晩夏に親しむ [旅行]

30度~35度の日が続き、傘寿を過ぎた者にはとても耐え難い夏です。
何処か涼しい処で英気を養なおうと、例の同窓グループ8名は、日本アルプスの麓に旅をしました。白馬ではホテル・グリーンプラザ白馬に泊まり、清里では清泉寮へ、安曇野では山葵園へ、時々小雨には見舞われましたが、山懐の晩夏に親しみ、100歳の明日に向かって英気を養うにはほぼ快適な旅でした。
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年寄りの冷や水 [旅行]

此の処、暑い日が続き、堪り兼ね家でごろごろして居りました。そんな折、友人から日帰り旅行の葉書が舞い込みました。
「老人は体力が第一、そんな生活をしていると体力が衰えてしまう、其れと同時に脳の活性化も無くなり、惚けてしまうぞ!」と驚かされている様な気分になり、日帰り旅行に行く事に決めました。昭和シングル生まれの爺々ばかり数人で7月17日、上野駅より高崎線に乗り込み、熊谷で秩父線に乗り換え、熱中症に気を付けながらも「暑さ体感の日帰り旅」に秩父路は長瀞に出掛けました。
川下りを楽しみ、川沿いのお店に寄り、生ビールで喉を潤し、名物の味噌かつ定食に舌ずつみを打ち、(名古屋だけではありません当地の味噌カツも亦格別でした。)座敷に迷い込んで来たツガイの糸トンボに慰められ少し若返った様な気分にもなりました。それにしても、とっても熱い一日でした.
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65年前さる高校を卒業した同級生がツアー旅行を・・・ [旅行]

手頃なツアーを見つけて人生の修学旅行を楽しんで来ました。高校時代の昔に戻ってみんな元気溌剌!然し、何と云っても平均年齢が八十数歳…外見は老いぼれの”糞爺””・・・周囲の観光客に迷惑にならない様に気を使いながらの漫遊でした。
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ミーバルの海の珊瑚

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維新以後8名も総理を出した長州 [旅行]

DSC00002.JPG 一地方に過ぎぬ山口が何故?8名もの首相を出し得たか?

長州の歴史を実感してみようと羽田から空路旅に出た。

次回は長州出身の政治家の心の糧となった吉田松陰に付いてこの旅で得た私感を少し述べさせて戴く積りです。

県史概略

【古代】
 アジア大陸に近い山口県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2~3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきた。4~5世紀頃、大和政権による統一国家が形成され、6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、更に、7世紀には、大化の改新により、周芳(すわ)=周防(すおう)、穴門(あなと)=長門(ながと)の2国に統合。

【中世】
 平安時代から鎌倉時代にかけては、周防国では朝鮮半島の百済の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東(ことう)氏が、確固たる地位 を確立した。
 室町時代に入ると、大内氏が、弘世(ひろよ)(24代)の時、防長二国(周防、長門)を平定した。そして、山口に京の都を模した町を造ると共に、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めた。其の結果 、山口は全国で有数の大きな都市として栄え、「西の京」と呼ばれるようになり、大変華やかな大内文化が開花した。
 栄華を誇った大内氏も、義隆(よしたか)31代が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれて衰え、其の陶氏を厳島(広島県宮島)の戦いで破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げた。元就の孫の輝元は、豊臣政権にあって、8カ国を領国とするなど最盛期を誇った。

【近世】
 然し、1600年の関が原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地を減らされてしまい居城を萩に築いた。以後、毛利氏は、もっぱら内政の充実に努めたが、藩財政は困難を極め、歴代の藩主は厳しい検地によって増石を計る一方、「防長の三白」(米、紙、塩)」に櫨蝋(はぜろう)を加えて「四白」)と云われる殖産政策を勧め、藩財政の強化に努た。其の結果 、長州藩は幕末には約100万石の実力を持つ様になった。又、藩校明倫館を中心とする教育風土は吉田松陰、高杉晋作など数多くの人材を輩出し、明治維新を推進する中心的存在となり、我が国の近代国家成立に大きな役割を果した。

【近現代】
 
幕府が滅び明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して土地と人民を政府に戻し、1871年の廃藩置県により現在の山口県が誕生。明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めた。当県ではセメント製造や硫酸製造の工場設立する等、近代工業の芽生えが見られたが、まだ明治時代は農業を中心産業とする県であった。
 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等を利用し、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場を次々に設置し、昭和の初期には農業県から工業県へと転換した。其の後も重化学工業を中心に成長を続け、第二次世界大戦後には、石油化学コンビナートを形成する等、全国有数の工業県に発展した。

一方、農業、林業、水産業等の第一次産業は工業化の進展と共に産業としての比重が低下した。更に、近年に於いては都市化の進展に伴って、商業、サービス業等の都市型産業が成長を続け、従来の産業分野を乗り越えた多彩な産業活動が活発化し、新産業の創出や新規事業の取組み展開している。 県の人口推移は、明治維新の頃に約80万人であったが、明治の終り頃には100万人を超え、第二次世界大戦後(1948年頃)には150万人を突破。其の後、一時期160万人を超えたが、近年人口の大都市集中や少子化等に依って減少傾向にある。

 

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