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日米修好通商条約 [史実]

私達が日本史で学んだ日米修好条約は不平等で稀代の悪条約とされていた然し、現在では、此の条約も見直されて、此の条約があったればこそ、我が国は清国を始め、インドや東南アジア諸国の様に 西欧列強の餌食になもらず、植民地にもされずに、近代国家として独立存続する事が出来たと考える人も多くなっている。  何故ならば 、日米修好通商条約はアメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無かった事等から、一般に不平等条約と云われるが、条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった。又、第二条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、・・・之は、欧羅巴列強と我が国の間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲立ちをする事を宣言したもので、[安政5か国条約]の相手国(イギリス・フランス・オランダ・ロシア等欧羅巴列強)は我が国との間に揉め事が発生した場合にはアメリカ大統領を相手に交渉する事を覚悟せねばならず、中国や東南アジア諸国の様に、た易く自国に有利な取り決めをする事は不可能であった。

此の条約は大老井伊が締結し、13代将軍家定が署名したのだが、実は・・・尊王攘夷鎖国派の老中首座福山藩主安倍正弘がハリスとの交渉に行き詰り、困り果てた挙句、西欧列強の事情に明るい、アヘン戦争や植民地の状況を熟知し、最早、此処に至って鎖国継続は・国の行く末が危うい・と懸念する佐倉藩主・堀田備中の守正睦を老中首座に推挙し、タウンゼント・ハリスとの交渉全てを任せていた。・・・ 堀田は八方に手を尽くし此れを纏め上げ、締結寸前にあった。然し、尊王攘夷を旨とする公家八十八卿や、”備中には腹を切らせハリスは首を刎ねる!”と迄云う尊王攘夷の総帥、水戸の烈公「斉昭」の反攻は強烈であり、其の対応に苦労していた。・・・折しも、紀伊の慶福か水戸徳川斉昭の7男、一ツ橋慶喜か?第13代将軍家定の後継問題が勃発した。・・・堀田は之を利用し[斉昭」籠絡の為、慶喜を推挙する策に出た。其れを疎ましく思う紀伊の慶福を推していた将軍は、突如、堀田を罷免し、井伊直弼を大老に任じてしまった。条約は堀田正睦とタウンゼント・ハリスが纏め上げた儘の内容で井伊が締結する事になった。史上、此の条約に堀田正睦の名は無い。堀田が全てを成し遂げていたならば・・・やがて明治維新に繋がる・安政の大獄も桜田門外の変も避けられていただろう。 ・・・佐倉城址公園には此の条約を纏め上げた藩主の偉業を偲び、堀田正睦及びタウンゼント・ハリス両公の銅像が地元有志に依り建立されている。    国立歴史民俗博物館見学の際には四季の移ろいを鮮やかに映し出す此の公園を散策し是非ご一覧戴きたい。                                             

 


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