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軍隊の町に過ごした少年時代 [同窓会]

大東亜戦争開戦の前年(昭和一五年)“サイタサイタサクラガサイタ”で入学たした私達は、年生の夏に終戦を迎えました。年生の時に昭南島(シンガポール)陥落を祝って戴いたゴム毬は「欲しがりません勝までは!」の時代のうれしい記憶です。「銃後を守る小国民」として勤労奉仕に明け暮れし、殆ど勉強などした覚えは有りません。夏休みの宿題は、種を絞って航空機の潤滑油に茎は剥いて軍服生地の素材に、との事で肥麻(ヒマ)の種が先生から配られ栽培したり、街路樹の松の木が各人に割り当てられ軍用に松ヤニを採ったりしました。馬糧の干し草刈も割り当ての1貫目は大変で祖母に応援して貰ったおぼえがあります。夏休みが終わると下級生は出征兵士の家の農作業を手伝い。3、4年生は飛行場でピカル(磨き砂)による機関砲の弾磨き。56年は飛行機の格納庫壊しでした。敵空母が九十九里沖に有り警戒警報も発令されず即空襲で、格納庫に登っての作業では、地上に降り立つ暇も無く、艦載機P51が来襲し、操縦桿を握る敵兵士の顔も肉眼でハッキリ見える近さで機銃掃射を受けました。芋畑を転がって逃げ廻り、防空壕に飛び込んだ記憶も有ります。日中の作業に疲れへとへとになり横になると、夜中には決まってB29依る空襲がありました。無差別に投下される焼夷弾が雨霰のように降り注ぎ隣の街を焼き尽くし家の近くまで迫って来た時も有りました。八月になると新型爆弾が広島、長崎に投下され、玉音放送があり、涙を流した記憶が有ります。学校の授業は有りましたが、先生方も途方に暮れているご様子でした。暫くは何をする気力も有りませんでした。やがてMPが検査に来るとの事で、ご真影の撤去作業や教科書の墨染等で気を遣いました。敗戦の日を境に兵舎では駐留軍が来る前に連日重要書類などの焼却が始まりました。書類などに火を掛け何日も燃やし続けておりました。其の一方、荷馬車や三輪車が行列を作り、軍事物資の奪い合いが始まりました。敗戦国民のあさましい姿が白日に曝され子供ながら情けなく遣る瀬なく感じた事を覚えています。一方敗戦の責任を負って自刃された同窓生の父親もおられ、戦に負けた悔しさや虚しさを実感致しました。やがて進駐軍がこの町にもやって来ました。背の高い黒人の米兵が家の中まで入って来た時には何をされるかわからず、唯、不安に慄いているだけでした。然し、夜中の空襲が無くなっただけ、ホッとした毎日でもありました。そんな町に育ち終戦を迎えた小学校の同窓会が20日に有り、久し振りに参加致しました。傘寿を超え既に鬼籍に入られた級友も多く黙祷に始まる集いでした。命をながらえ級友と昔を懐かしみ歓談し時の経つのも忘れました。この平和がいつまでも続く事を願うばかりです。



 




初詣は明治神宮 [同窓会]

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昨日、明治神宮に初詣しました。傘寿を迎え,私達の初詣は、此処数年60年来の友人7名(高校の同級生)で揃い行っています。同時に軽く新年宴会を行います。今年は初台のビルの54階のレストランから少し景気が良くなってきた下界を眺めながら挙行致しました。昨年は鎌倉の鶴岡八幡宮、一昨年は深大寺、其の前の年は浅草寺、其の前は寅さんの柴又帝釈天、と云う具合に毎年神社仏閣を変えて行っています。未だ暫くはこのメンバーで行う積りでいます。何年続けられるか楽しみです。目的は有りませんが関東一円の神社仏閣を出来るだけ多く参詣したいと願っています。御利益は有るでしょうかね?


最後のクラス会になるかも? [同窓会]

vcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpgvcm_s_kf_repr_832x624.jpg25日久し振りに箱根で高校のクラス会が有りました。参加者が従来より少ない様でしたので伺って見ると、クラスの約半数は、既に此の世には居らず、残された者の約半数は、病床に有るか、元気でも自力ではとても外出が出来ない状態で生きている、との事でした。、最後のクラス会になるかも知れないとの想いで、卒業時三十数名のクラスでしたが自力で参加出来る者は殆どが頑張って参加されたと伺い感激致しました。少年期から青年期に掛けて共に学び遊び、苦労を共にしたクラスのメンバーが語る懐かしい思い出話に夜の更けるのも忘れて過ごした一夜でした。

OB会 [同窓会]

定年後17年も過ぎましたが、かつて勤務していた企業グループのOB会が例年通りC市で開催され出席致しました。懐かしい面々と一年振りに再開、よもやま話に花を咲かせました。参加された方の中には病に苦しんでいる方も居られましたが、皆さん気持ちだけは若々しく、往時の姿が偲ばれ楽しい集まりでした。例年の事ですが、今年も何人かの方が参加出来なくなり、同じ時代を過ごしたメンバーが少しずつ欠けて行くのが、如何に人の世の常とは申せ寂しく切ない思いです。幹事さん今年も大変お世話になりました。


旧交を温めました。 [同窓会]

私達は大東亜戦争開戦の前年に小学校に入学し、5年生の8月に終戦を迎えました。3年生の時には昭南島(シンガポール)陥落を祝ってゴム毬を戴いた。「欲しがりません勝までは!」の時代のうれしい記憶である。毎日が勤労奉仕で明け暮れし、勉強などした覚えは無い。その代り銃後を護る小国民として宿題がかなり多く、麻の種(ヒマ)が学校から配られ、航空機の潤滑油用に栽培したり、其の茎を剥いで軍服の生地の素材作りをしたり、割り当てられた松の木から軍事用の松ヤニ採り、軍馬の干し草作り等々大変でした。授業は下級生が出征兵士の家の農作業の手伝い。4年生は、飛行場でピカル(磨き砂)による機関砲の弾磨き。5、6年生になると飛行場の格納庫壊しでした。vcm_s_kf_repr_832x624.jpg格納庫に登っての作業は、敵の空母が九十九里沿岸に有る為、警戒警報も発令されずに即空襲で、地上に降り立つ暇も無く、艦載機P51が来襲し、操縦桿を握る敵兵士の顔も肉眼でハッキリ見える近さで機銃掃射を受けました。芋畑を転がって逃げ廻り、防空壕に飛び込んだ記憶も有ります。日中の作業で疲れ果てへとへとになり横になると、夜中には決まってB29に依る空襲がありました。無差別に投下される焼夷弾が雨霰のように降り注ぎ、隣の市を焼き尽くし、家の近くまで迫って来た時も有りました。8月になると新型爆弾が広島、長崎に投下され、玉音放送があり、涙を流した記憶が有ります。やがて進駐軍がこの町にもやって来ました。米兵が家の中まで入って来た時には何をされるかわからず、唯不安に慄いているだけでした。然し、夜中の空襲が無くなっただけ、ホッとした毎日でもありました。学校の授業は有りましたが、先生方も途方に暮れているご様子でした。暫くは何をする気力も有りませんでした。やがてMPが検査に来るとの事で、ご真影の撤去作業や教科書の墨染等で気を遣いました。敗戦の日を境に兵舎では駐留軍が来る前にと重要書類などの焼却が始まりました。飛行場では飛行機や書類などに火を掛け何日も燃やし続けておりました。其の一方、荷馬車や三輪車が行列を作り、軍事物資の奪い合いが始まりました。敗戦国民のあさましい姿が白日に曝され、子供ながら情けなく遣る瀬なく感じた事を覚えています。一方、敗戦の責任を負って自刃された同窓生の父親もおられ、戦に負けた悔しさや、虚しさを実感いたしました。そんな町に育ち終戦を迎えた小学生の同窓会が先日行われ、65年ぶりに初めて参加しました。喜寿を過ぎ既に鬼籍に入られた級友も多く、黙祷に始まる集いでした。命をながらえ、級友と昔を懐かしみ歓談し時の経つのを忘れました。願うは、この平和がいつまでも続く事でした。


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