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戦争遂行に利用された虚像 [歴史]

DSC00005.JPG日清、日露から大東亜戦争敗戦に至る我が国の政治を顧みるに、所謂、長州閥と称される「松下村塾」の影響を受けた政治家達抜きに考える事は難しい。刑死した松陰を神格化し、彼の覇権主義的な部分を政治に取り入れた事に全てが始まる。

松陰は1830年長州の萩に長州藩士の次男として生まれ、5歳にして山鹿流兵学師範の叔父の養子となる。21歳から国内各地に旅し、自己の知識を研鑽し倒幕の必要性を思考する様になる。1854年米艦に密航を企て投獄される。1857年叔父の塾を継ぎ、新たに「松下村塾」を主宰した。其処では武士以外の兵を含む騎兵隊を創設した高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、山形有朋、伊藤博文等々、維新後、明治政府の柱となった人材を多く輩出した。

松陰は1859年大老井伊直弼の「安政の大獄」に連座し斬首されたが、其の理由の一つに・・・幕府老中及びペリー提督暗殺計画の実行を久坂玄瑞宛てに命じた内容も検証されている。

幕府老中とは当時老中であり欧米事情に明るい佐倉藩主堀田正睦であり、米国艦隊ペリー提督は堀田備中の守正睦と米国公使タウンゼント・ハリスの日米友好通商条約の前交渉に当たっていた。

「松下村塾」が下級武士や平民、百姓にも門戸を開き、平等思想実現を目標に教えていた様にも云われるが、実は「国を守るは武士であり武士こそ第一と身分秩序を重視する思想も有していた。

一方では、日本がアジアを制し西欧列強に対抗する戦略を考え「朝鮮を取り、満洲を拉し、志那を圧し、インドに臨み、以って進取の勢いを張り云々」と説いている。

原田伊織氏は著書「明治維新と云う過ち」に、維新後の日本は長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力とし、松陰の主張通り広大なエリアに進出し、最後には自国迄滅ぼしてしまったと記している。

“松陰の本質は教育者以前に革命家であり、要人暗殺を謀り政権転覆を図った「テロリスト」と云っても過言では無い。

教育者の面が強調され始めたのは、大正の終りから昭和の初めに掛けての軍国主義華やかなりし頃であり、1927年の「修身」の教科書には、松陰は「松下村塾」を開き、「尊皇愛国の精神を養う事に務めました」とだけ書かれている。然し・・・松陰は死後神格化され弟子達に利用され続けた。 当初、松陰の尊皇攘夷思想は長州でも異端視されていた。・・・尊皇攘夷は本来倒幕要素を含むイデオロギーでは無いにも拘らず、長州では 1862年以後次第に其れが倒幕的色彩を帯びていった。刑死した恩師松陰を久坂玄瑞を始めとした塾生達が神格化し、倒幕の象徴として祭り上げ、維新以後は多くの長州閥政治家達によって戦争遂行の為利用されて来た。

・・・神格化された吉田松陰は使い勝手の良い虚像であり、裏に多くの思惑を感ぜずにはいられない。

 

 

 


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歴史に残る堀田公の家系 [歴史]

 将軍綱吉の初期の大老堀田正俊天和の治(てんなのち)と云われる一時代を築いた。

我が物顔で幕政を取り仕切る旧門閥を押さえ、将軍の意を存分発揮出来る体制を築いた。然し、江戸城内の御座の間で、若年寄り稲葉正休に突然殺害されてしまった。下手人稲葉も現場に居た老中に取り調べもせず討ち果たされた。何故?殺害されたかは不明である。大老の権力増大を恐れた将軍綱吉の意を受けた上意討ち?との説もある。                  天和の治(てんなのち) 

将軍綱吉と云えば、「生類哀れみの令」や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。然し、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。其の綱吉の改革の中心的役割を担ったのが大老の堀田正俊である。春日局の養子で、綱吉の兄である家綱の小姓となった事から出世し、1867年には老中に迄上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと」と云う大老・酒井忠清に対し「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局、正俊が勝ち、正俊は大老となった。 将軍綱吉と大老堀田正俊は「綱紀粛正」にを力を入れ、治政不良の大名は次々と処罰した。御家騒動等は論外で、代官の不正さえ一切許さなかった。一方、真面目な者達は表彰する、信賞必罰で政治に臨み、堕落した幕府と大名を厳格に取り締まった。其の他、財政再建に関しては、勘定吟味役を創設し不正を厳格に取り締まった。
 だが1684年に、如何なる理由からか大老堀田正俊が、甥の若年寄り稲葉正休に殺されてしまう。一説に依れば綱吉の命で殺したと云い。又、一説によれば、正休の立てた淀川改修工事を巡る費用見積4万両に対し、堀田正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させた処、半分の費用で済む事が判明、面目を失った正休が大老を殺したとも云われている・・・。

 此の頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ねる様になっていった。之を機に将軍綱吉は老中の力を削ぐ事に力を入れ、正俊の遺児も僻地に左遷し、以後の幕政は将軍綱吉の絶対的親政となり実務面は側用人、特に柳沢吉保を中心に動く事になった。従来の日本史にある犬公方綱吉の悪政が行われた元禄時代に突入する。綱吉の統治時代は強力な独裁政治が行われ、其の腹心が天和期では堀田正俊であり、元禄期は側用人柳沢吉保であった。 

 

堀田正睦=「国運を伸長するの道は開国に有り、国力を増強する策は通商に有り」との信念を持つ佐倉藩主堀田正睦は尊王攘夷鎖国派の福山藩主安倍正弘に替わり老中首座に在って日米友好通商条約締結に向け尽力した。条約の締結は大老の井伊直弼であるが、事実上日米友好通商条約を纏めたのは直前まで老中首座にあった堀田正睦と米国公使タウンゼントハリスであった。

国立歴史民俗博物館の有る佐倉城跡公園には、両公の偉業を偲び佐倉藩主堀田正睦公及び米国公使タウンゼント・ハリス公の像が地元有志に依り建てられている。

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