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新勝寺参詣 [お参り]

早いもので、9月も残り少なくなりました。正・5.9.は成田山新勝寺の参詣月ですので、都合を付け、お参りに行ってきました。相変わらず参詣者が多く、駐車場も境内も大分賑わっていました。参詣後、信徒会館で休憩し、参道で土産物屋を冷やかし、名物の羊羹を少し求めてきました。空港に近いせいもあり外国の方もちらほら見受けられました。


・護摩行を終え本堂より退出する僧侶・      ・休憩した信徒会館・

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戦争遂行に利用された虚像 [歴史]

DSC00005.JPG日清、日露から大東亜戦争敗戦に至る我が国の政治を顧みるに、所謂、長州閥と称される「松下村塾」の影響を受けた政治家達抜きに考える事は難しい。刑死した松陰を神格化し、彼の覇権主義的な部分を政治に取り入れた事に全てが始まる。

松陰は1830年長州の萩に長州藩士の次男として生まれ、5歳にして山鹿流兵学師範の叔父の養子となる。21歳から国内各地に旅し、自己の知識を研鑽し倒幕の必要性を思考する様になる。1854年米艦に密航を企て投獄される。1857年叔父の塾を継ぎ、新たに「松下村塾」を主宰した。其処では武士以外の兵を含む騎兵隊を創設した高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、山形有朋、伊藤博文等々、維新後、明治政府の柱となった人材を多く輩出した。

松陰は1859年大老井伊直弼の「安政の大獄」に連座し斬首されたが、其の理由の一つに・・・幕府老中及びペリー提督暗殺計画の実行を久坂玄瑞宛てに命じた内容も検証されている。

幕府老中とは当時老中であり欧米事情に明るい佐倉藩主堀田正睦であり、米国艦隊ペリー提督は堀田備中の守正睦と米国公使タウンゼント・ハリスの日米友好通商条約の前交渉に当たっていた。

「松下村塾」が下級武士や平民、百姓にも門戸を開き、平等思想実現を目標に教えていた様にも云われるが、実は「国を守るは武士であり武士こそ第一と身分秩序を重視する思想も有していた。

一方では、日本がアジアを制し西欧列強に対抗する戦略を考え「朝鮮を取り、満洲を拉し、志那を圧し、インドに臨み、以って進取の勢いを張り云々」と説いている。

原田伊織氏は著書「明治維新と云う過ち」に、維新後の日本は長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力とし、松陰の主張通り広大なエリアに進出し、最後には自国迄滅ぼしてしまったと記している。

“松陰の本質は教育者以前に革命家であり、要人暗殺を謀り政権転覆を図った「テロリスト」と云っても過言では無い。

教育者の面が強調され始めたのは、大正の終りから昭和の初めに掛けての軍国主義華やかなりし頃であり、1927年の「修身」の教科書には、松陰は「松下村塾」を開き、「尊皇愛国の精神を養う事に務めました」とだけ書かれている。然し・・・松陰は死後神格化され弟子達に利用され続けた。 当初、松陰の尊皇攘夷思想は長州でも異端視されていた。・・・尊皇攘夷は本来倒幕要素を含むイデオロギーでは無いにも拘らず、長州では 1862年以後次第に其れが倒幕的色彩を帯びていった。刑死した恩師松陰を久坂玄瑞を始めとした塾生達が神格化し、倒幕の象徴として祭り上げ、維新以後は多くの長州閥政治家達によって戦争遂行の為利用されて来た。

・・・神格化された吉田松陰は使い勝手の良い虚像であり、裏に多くの思惑を感ぜずにはいられない。

 

 

 


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維新以後8名も総理を出した長州 [旅行]

DSC00002.JPG 一地方に過ぎぬ山口が何故?8名もの首相を出し得たか?

長州の歴史を実感してみようと羽田から空路旅に出た。

次回は長州出身の政治家の心の糧となった吉田松陰に付いてこの旅で得た私感を少し述べさせて戴く積りです。

県史概略

【古代】
 アジア大陸に近い山口県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2~3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきた。4~5世紀頃、大和政権による統一国家が形成され、6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、更に、7世紀には、大化の改新により、周芳(すわ)=周防(すおう)、穴門(あなと)=長門(ながと)の2国に統合。

【中世】
 平安時代から鎌倉時代にかけては、周防国では朝鮮半島の百済の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東(ことう)氏が、確固たる地位 を確立した。
 室町時代に入ると、大内氏が、弘世(ひろよ)(24代)の時、防長二国(周防、長門)を平定した。そして、山口に京の都を模した町を造ると共に、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めた。其の結果 、山口は全国で有数の大きな都市として栄え、「西の京」と呼ばれるようになり、大変華やかな大内文化が開花した。
 栄華を誇った大内氏も、義隆(よしたか)31代が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれて衰え、其の陶氏を厳島(広島県宮島)の戦いで破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げた。元就の孫の輝元は、豊臣政権にあって、8カ国を領国とするなど最盛期を誇った。

【近世】
 然し、1600年の関が原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地を減らされてしまい居城を萩に築いた。以後、毛利氏は、もっぱら内政の充実に努めたが、藩財政は困難を極め、歴代の藩主は厳しい検地によって増石を計る一方、「防長の三白」(米、紙、塩)」に櫨蝋(はぜろう)を加えて「四白」)と云われる殖産政策を勧め、藩財政の強化に努た。其の結果 、長州藩は幕末には約100万石の実力を持つ様になった。又、藩校明倫館を中心とする教育風土は吉田松陰、高杉晋作など数多くの人材を輩出し、明治維新を推進する中心的存在となり、我が国の近代国家成立に大きな役割を果した。

【近現代】
 
幕府が滅び明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して土地と人民を政府に戻し、1871年の廃藩置県により現在の山口県が誕生。明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めた。当県ではセメント製造や硫酸製造の工場設立する等、近代工業の芽生えが見られたが、まだ明治時代は農業を中心産業とする県であった。
 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等を利用し、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場を次々に設置し、昭和の初期には農業県から工業県へと転換した。其の後も重化学工業を中心に成長を続け、第二次世界大戦後には、石油化学コンビナートを形成する等、全国有数の工業県に発展した。

一方、農業、林業、水産業等の第一次産業は工業化の進展と共に産業としての比重が低下した。更に、近年に於いては都市化の進展に伴って、商業、サービス業等の都市型産業が成長を続け、従来の産業分野を乗り越えた多彩な産業活動が活発化し、新産業の創出や新規事業の取組み展開している。 県の人口推移は、明治維新の頃に約80万人であったが、明治の終り頃には100万人を超え、第二次世界大戦後(1948年頃)には150万人を突破。其の後、一時期160万人を超えたが、近年人口の大都市集中や少子化等に依って減少傾向にある。

 

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国立歴史民俗博物館 [写真]

vcm_s_kf_repr_832x624.jpg国立歴史民俗博物館にお出掛けの際は、是非、四季の移ろい豊かな佐倉城址公園を散策し、日米通商友好条約締結に尽力された堀田正睦及び米国大使タウンゼント・ハリス両公の像をも御覧下さい。

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歴史に残る堀田公の家系 [歴史]

 将軍綱吉の初期の大老堀田正俊天和の治(てんなのち)と云われる一時代を築いた。

我が物顔で幕政を取り仕切る旧門閥を押さえ、将軍の意を存分発揮出来る体制を築いた。然し、江戸城内の御座の間で、若年寄り稲葉正休に突然殺害されてしまった。下手人稲葉も現場に居た老中に取り調べもせず討ち果たされた。何故?殺害されたかは不明である。大老の権力増大を恐れた将軍綱吉の意を受けた上意討ち?との説もある。                  天和の治(てんなのち) 

将軍綱吉と云えば、「生類哀れみの令」や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。然し、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。其の綱吉の改革の中心的役割を担ったのが大老の堀田正俊である。春日局の養子で、綱吉の兄である家綱の小姓となった事から出世し、1867年には老中に迄上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと」と云う大老・酒井忠清に対し「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局、正俊が勝ち、正俊は大老となった。 将軍綱吉と大老堀田正俊は「綱紀粛正」にを力を入れ、治政不良の大名は次々と処罰した。御家騒動等は論外で、代官の不正さえ一切許さなかった。一方、真面目な者達は表彰する、信賞必罰で政治に臨み、堕落した幕府と大名を厳格に取り締まった。其の他、財政再建に関しては、勘定吟味役を創設し不正を厳格に取り締まった。
 だが1684年に、如何なる理由からか大老堀田正俊が、甥の若年寄り稲葉正休に殺されてしまう。一説に依れば綱吉の命で殺したと云い。又、一説によれば、正休の立てた淀川改修工事を巡る費用見積4万両に対し、堀田正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させた処、半分の費用で済む事が判明、面目を失った正休が大老を殺したとも云われている・・・。

 此の頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ねる様になっていった。之を機に将軍綱吉は老中の力を削ぐ事に力を入れ、正俊の遺児も僻地に左遷し、以後の幕政は将軍綱吉の絶対的親政となり実務面は側用人、特に柳沢吉保を中心に動く事になった。従来の日本史にある犬公方綱吉の悪政が行われた元禄時代に突入する。綱吉の統治時代は強力な独裁政治が行われ、其の腹心が天和期では堀田正俊であり、元禄期は側用人柳沢吉保であった。 

 

堀田正睦=「国運を伸長するの道は開国に有り、国力を増強する策は通商に有り」との信念を持つ佐倉藩主堀田正睦は尊王攘夷鎖国派の福山藩主安倍正弘に替わり老中首座に在って日米友好通商条約締結に向け尽力した。条約の締結は大老の井伊直弼であるが、事実上日米友好通商条約を纏めたのは直前まで老中首座にあった堀田正睦と米国公使タウンゼントハリスであった。

国立歴史民俗博物館の有る佐倉城跡公園には、両公の偉業を偲び佐倉藩主堀田正睦公及び米国公使タウンゼント・ハリス公の像が地元有志に依り建てられている。

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