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維新以後8名も総理を出した長州 [旅行]

DSC00002.JPG 一地方に過ぎぬ山口が何故?8名もの首相を出し得たか?

長州の歴史を実感してみようと羽田から空路旅に出た。

次回は長州出身の政治家の心の糧となった吉田松陰に付いてこの旅で得た私感を少し述べさせて戴く積りです。

県史概略

【古代】
 アジア大陸に近い山口県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2~3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきた。4~5世紀頃、大和政権による統一国家が形成され、6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、更に、7世紀には、大化の改新により、周芳(すわ)=周防(すおう)、穴門(あなと)=長門(ながと)の2国に統合。

【中世】
 平安時代から鎌倉時代にかけては、周防国では朝鮮半島の百済の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東(ことう)氏が、確固たる地位 を確立した。
 室町時代に入ると、大内氏が、弘世(ひろよ)(24代)の時、防長二国(周防、長門)を平定した。そして、山口に京の都を模した町を造ると共に、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めた。其の結果 、山口は全国で有数の大きな都市として栄え、「西の京」と呼ばれるようになり、大変華やかな大内文化が開花した。
 栄華を誇った大内氏も、義隆(よしたか)31代が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれて衰え、其の陶氏を厳島(広島県宮島)の戦いで破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げた。元就の孫の輝元は、豊臣政権にあって、8カ国を領国とするなど最盛期を誇った。

【近世】
 然し、1600年の関が原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地を減らされてしまい居城を萩に築いた。以後、毛利氏は、もっぱら内政の充実に努めたが、藩財政は困難を極め、歴代の藩主は厳しい検地によって増石を計る一方、「防長の三白」(米、紙、塩)」に櫨蝋(はぜろう)を加えて「四白」)と云われる殖産政策を勧め、藩財政の強化に努た。其の結果 、長州藩は幕末には約100万石の実力を持つ様になった。又、藩校明倫館を中心とする教育風土は吉田松陰、高杉晋作など数多くの人材を輩出し、明治維新を推進する中心的存在となり、我が国の近代国家成立に大きな役割を果した。

【近現代】
 
幕府が滅び明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して土地と人民を政府に戻し、1871年の廃藩置県により現在の山口県が誕生。明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めた。当県ではセメント製造や硫酸製造の工場設立する等、近代工業の芽生えが見られたが、まだ明治時代は農業を中心産業とする県であった。
 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等を利用し、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場を次々に設置し、昭和の初期には農業県から工業県へと転換した。其の後も重化学工業を中心に成長を続け、第二次世界大戦後には、石油化学コンビナートを形成する等、全国有数の工業県に発展した。

一方、農業、林業、水産業等の第一次産業は工業化の進展と共に産業としての比重が低下した。更に、近年に於いては都市化の進展に伴って、商業、サービス業等の都市型産業が成長を続け、従来の産業分野を乗り越えた多彩な産業活動が活発化し、新産業の創出や新規事業の取組み展開している。 県の人口推移は、明治維新の頃に約80万人であったが、明治の終り頃には100万人を超え、第二次世界大戦後(1948年頃)には150万人を突破。其の後、一時期160万人を超えたが、近年人口の大都市集中や少子化等に依って減少傾向にある。

 

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